桜咲く大和路バスツアー紹介⑦「見瀬丸山古墳」
2008年 01月 03日
見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん)は、
奈良県橿原市見瀬町、五条町、大軽町にまたがった地区に存在する
全長は318メートル(奈良県最大、全国でも6番目)の前方後円墳です。
6世紀後半に築造されたと推定されており、研究者の間においては
欽明天皇と堅塩媛の陵墓であるとの説が有力視されています。
(欽明天皇は推古天皇のお父さん、厩戸皇子[聖徳太子]のお祖父ちゃん)
宮内庁は、天皇家もしくはその関係者の墓として管理している古墳を
「陵墓」ないし「陵墓参考地」と言っています。
明治期に天皇を頂点とした政治的枠組みの強化が図られた時に、
その先祖の墓である陵墓の管理強化も行われました。
「天皇は日本の建国の祖にして万世一系の血筋正しき存在」
という神聖性を具現化する方法の一つとして古墳という歴史的産物を利用したのです。
戦後もその名残か、「陵墓」「陵墓参考地」は一般人・研究者の立ち入りを禁止されています。
ましてや、発掘調査なんてもってのほか、という態度です。
(陵墓の裾回りの護岸工事に伴う調査などは、
宮内庁書陵部職員により発掘されることもありますが、
研究者などの立ち入りは「見学」程度しか許されません)
「陵墓」「陵墓参考地」は法律上、
遺跡(文化財保護法の規定では、周知の埋蔵文化財包蔵地)ではないのです。
小説『箸墓幻想』でも、殺人犯の母娘が罪が発覚することを覚悟し、
箸墓の墳丘内で自殺するのですが、警察さえ立ち入りを認められず、
宮内庁職員によって見分、処理が行われるのを
刑事や警察職員が地団太ふんでくやしがるシーンが登場します。
宮内庁はその理由として、次のような理由をあげています。
●皇室において祭祀が継続して行われているところであり、
皇室と国民の追慕尊崇の対象となっているから
●静安と尊厳の保持が最も重要なことであり、
部外者に陵墓を発掘させたり立ち入らせたりすることは厳に慎むべきであるから
しかし、文献史学の成果による天皇家の実在性の成否、
発掘調査による考古学の成果による認定の成否などにより、
「陵墓」「陵墓参考地」そのものの根拠が大きく揺らいできています。
今や、宮内庁のこうした態度が、研究にも非常に大きな支障になっています。
明治天皇下の天皇と日本国憲法の下の天皇との地位は全く変わっている現在
万世一系の天皇統治すの感覚で古墳を管理することが
そもそも間違いであるといわざるをえません。
日本の歴史で謎の多い古代国家形成期の歴史を解明するためには、
大古墳の調査が欠かせません。
三世紀から六世紀までの古墳は大型の前方後円墳で、
築造技術を駆使して造られた文化的価値は高く、
また日本が世界に誇る文化財でもあります。
これを積極的に公開し、調査研究していくよう法改正するべきだと考えます。
ツアーでは、この見瀬丸山古墳の墳丘に登って古墳の様子をみてもらいます!
大丈夫かって? はい、大丈夫です。
なぜなら、「陵墓参考地」とされているのは、後円部の林になっている部分だけなので、
前方部には登ることができるのです。
登りましょ、登りましょ!「欽明天皇陵?」に!(墳丘から見えるのは畝傍山です)
この古墳には、こんな話もあります。
1991年、橿原市在住の子どもが友だちと遊んでいる際中に
古墳の柵外(「参考地」外)において横穴式石室羨道への入り口を発見しました。
この話を聞いたある子どもの父親は、早朝の出勤前に自身の子どもと共に
羨道を通って内部に入り、カメラで石室内部を撮影しました。
その父親から連絡を受けた大阪の朝日放送が撮影写真の解析を、
東海大学情報技術センターとコニカの共同作業によっておこないました。
二つある家形石棺はどちらもふた近くまで泥で埋まっており、
ふたに付く縄掛け突起の特長から、
手前の石棺は6世紀の第3四半世紀に、
奥の石棺は7世紀の第1四半世紀にそれぞれ造られたと推定されました。
石室正面を構成する花崗岩の巨石は重量が100トンを越えると推定されており、
石舞台古墳の75トンの石をもしのぐ大きさであることがわかりました。
その後、森浩一・同志社大学教授(当時)が
12月10日の大阪講演でこの話を取り上げたところ、
12月26日テレビ朝日のニュースステーションの番組内において
撮影された30枚の写真を公開しました。
このことで、ますますこの古墳が本物の「欽明天皇陵」だという可能性が高まったのですが、
宮内庁はそれでもやっぱり調査を認めようとはしていませんでした。
宮内庁が「欽明陵」として管理する古墳は飛鳥にあります。
やっぱりおかしいよね~!どう考えても。
宮内庁書陵部公開 見瀬丸山古墳内部
奈良県橿原市見瀬町、五条町、大軽町にまたがった地区に存在する
全長は318メートル(奈良県最大、全国でも6番目)の前方後円墳です。
6世紀後半に築造されたと推定されており、研究者の間においては
欽明天皇と堅塩媛の陵墓であるとの説が有力視されています。
(欽明天皇は推古天皇のお父さん、厩戸皇子[聖徳太子]のお祖父ちゃん)
宮内庁は、天皇家もしくはその関係者の墓として管理している古墳を
「陵墓」ないし「陵墓参考地」と言っています。
明治期に天皇を頂点とした政治的枠組みの強化が図られた時に、
その先祖の墓である陵墓の管理強化も行われました。
「天皇は日本の建国の祖にして万世一系の血筋正しき存在」
という神聖性を具現化する方法の一つとして古墳という歴史的産物を利用したのです。
戦後もその名残か、「陵墓」「陵墓参考地」は一般人・研究者の立ち入りを禁止されています。
ましてや、発掘調査なんてもってのほか、という態度です。
(陵墓の裾回りの護岸工事に伴う調査などは、
宮内庁書陵部職員により発掘されることもありますが、
研究者などの立ち入りは「見学」程度しか許されません)
「陵墓」「陵墓参考地」は法律上、
遺跡(文化財保護法の規定では、周知の埋蔵文化財包蔵地)ではないのです。
小説『箸墓幻想』でも、殺人犯の母娘が罪が発覚することを覚悟し、
箸墓の墳丘内で自殺するのですが、警察さえ立ち入りを認められず、
宮内庁職員によって見分、処理が行われるのを
刑事や警察職員が地団太ふんでくやしがるシーンが登場します。
宮内庁はその理由として、次のような理由をあげています。
●皇室において祭祀が継続して行われているところであり、
皇室と国民の追慕尊崇の対象となっているから
●静安と尊厳の保持が最も重要なことであり、
部外者に陵墓を発掘させたり立ち入らせたりすることは厳に慎むべきであるから
しかし、文献史学の成果による天皇家の実在性の成否、
発掘調査による考古学の成果による認定の成否などにより、
「陵墓」「陵墓参考地」そのものの根拠が大きく揺らいできています。
今や、宮内庁のこうした態度が、研究にも非常に大きな支障になっています。
明治天皇下の天皇と日本国憲法の下の天皇との地位は全く変わっている現在
万世一系の天皇統治すの感覚で古墳を管理することが
そもそも間違いであるといわざるをえません。
日本の歴史で謎の多い古代国家形成期の歴史を解明するためには、
大古墳の調査が欠かせません。
三世紀から六世紀までの古墳は大型の前方後円墳で、
築造技術を駆使して造られた文化的価値は高く、
また日本が世界に誇る文化財でもあります。
これを積極的に公開し、調査研究していくよう法改正するべきだと考えます。
ツアーでは、この見瀬丸山古墳の墳丘に登って古墳の様子をみてもらいます!
大丈夫かって? はい、大丈夫です。
なぜなら、「陵墓参考地」とされているのは、後円部の林になっている部分だけなので、
前方部には登ることができるのです。
登りましょ、登りましょ!「欽明天皇陵?」に!(墳丘から見えるのは畝傍山です)
この古墳には、こんな話もあります。
1991年、橿原市在住の子どもが友だちと遊んでいる際中に
古墳の柵外(「参考地」外)において横穴式石室羨道への入り口を発見しました。
この話を聞いたある子どもの父親は、早朝の出勤前に自身の子どもと共に
羨道を通って内部に入り、カメラで石室内部を撮影しました。
その父親から連絡を受けた大阪の朝日放送が撮影写真の解析を、
東海大学情報技術センターとコニカの共同作業によっておこないました。
二つある家形石棺はどちらもふた近くまで泥で埋まっており、
ふたに付く縄掛け突起の特長から、
手前の石棺は6世紀の第3四半世紀に、
奥の石棺は7世紀の第1四半世紀にそれぞれ造られたと推定されました。
石室正面を構成する花崗岩の巨石は重量が100トンを越えると推定されており、
石舞台古墳の75トンの石をもしのぐ大きさであることがわかりました。
その後、森浩一・同志社大学教授(当時)が
12月10日の大阪講演でこの話を取り上げたところ、
12月26日テレビ朝日のニュースステーションの番組内において
撮影された30枚の写真を公開しました。
このことで、ますますこの古墳が本物の「欽明天皇陵」だという可能性が高まったのですが、
宮内庁はそれでもやっぱり調査を認めようとはしていませんでした。
宮内庁が「欽明陵」として管理する古墳は飛鳥にあります。
やっぱりおかしいよね~!どう考えても。
宮内庁書陵部公開 見瀬丸山古墳内部
by kodomowomamoru
| 2008-01-03 16:53
| 3/31桜咲く大和路バスツアー